関西人と関西弁の話

 関東にいると、街中で聞こえる関西弁がとても気になる。ただ、聞こえるだけならもちろんいいのだが、結構大声で、恥ずかしい感じの旅行客(だと思う)が多い。今日もエスカレータの上から、いかにもな、関西のおばちゃんが大声で降りてきた。人のふり見て、、、自分たちも注意が必要だ。

 

 うちの夫婦は地元公立高校の同級生で、共に関西出身。ただ、嫁さんの親は共に四国出身の人なので、代々にわたり関西の水呑百姓として君臨してきた我が家とは歴史が違う。子供の頃から関西弁の英才教育をお互いに受けてきたにも関わらず、関西を出て十年以上も立つ僕より、3年程度の嫁さんの方が遥かに標準語を使いこなしている。入社の時、影で若手芸人とあだ名をつけられるくらいだった僕の関西弁は今も根深く、いまだ周囲には「コテコテの関西弁」をしゃべる人と思われている。一方で、自分では自分が話す関西弁の色がすごく薄まっていることを実感している。たまに地元に帰って友人と話をするときには相当の注意を要する、マクドナルドを「マック」などと一度でも言おうものなら、周囲から耐え切れないほどの罵声を浴びせられるのだ。

 僕が考える「関西弁が他の地方の方言よりも抜けにくい理由」は主に二つある。一つは、関西弁には敬語があること。誰かに「○○する?」と聞くときでも「○○します?」「○○しますか?」「○○しはりますか?」と原形を含めて4パターンあり、それぞれ使うときの立場と気持ちが異なる。方言に敬語があることが少ないのか、「方言出ないね」と聞いたときに「敬語でしゃべるから標準語になってしまいます」と言われることが多い。もちろん僕は関西敬語で修士号を取得しているので、無意識のうちに、会社でも、取引先の相手にも関西敬語を使ってしまい、お里が知れる。関西以外の出身の人には注意されることもあるが、なかなか抜けない(抜く気がないでしょとも突っ込まれる)。関西弁が抜けにくい理由、その2は、お察しの通りで、関西出身の芸能人がメディアで使うからだ。昔からTVなどでは明石家さんまさんをはじめとした、関西出身の芸人さんが関西弁をそのままの言葉で使っていたため、関西弁に対する周りの違和感が比較的小さく、理解がされやすい。関西以外の出身のお笑い芸人が多くなり、関東の人でも「ボケ」「ツッコミ」を意識するようになった今でも、やはり関西出身のお笑い芸人の数が圧倒的に優勢に見える。

 関東にきて関西弁をしゃべっていると、「関西人て面白いことゆうんだよね?」感を押し付けられることがたまにある。いや、よくある。関西人にもいろいろな人がいるのだが、笑いの英才教育を受けている関西人への期待の表れだろう。関西弁と「お笑いの文化」が切っても切れないということだけは全国の共通認識らしい。

 

 関西の土曜のお昼といえば、ご存じ吉本新喜劇である。ゆとり教育以前、土曜の午前中授業が終わった後、関西の小学生は皆、石を蹴りながら家に着いた後、「すっきゃねん」を食べながら新喜劇を見る。全員見る。ほぼ毎週同じボケを舞台や順番を変えて演じているだけなのだが、10年以上は欠かさず見ていたように思う。関西の子供たちはこの新喜劇を通して、「ボケ」「ツッコミ」の役割と方法、間、リアクション、その他笑いに必要な素養を身に着けていく。いつのころからか、「お笑い」とか「お笑い番組」とかいう表現を受け入れてしまったが、そもそも関西にいたころは「お笑い」などと特に意識的なカテゴライズをせずに、「いつもそこにある不可欠なもの」という認識をしていたような気がする。そしてなぜか関東人は笑いに理解がないとか信じていた。「8ちゃん」を軸に動いていた我が家のTV、朝の顔大塚さんが「ボケ」と「ツッコミ」を軽部さんに語るのを見たとき、宇多田ヒカルを初めて聞いた時と同じ「時代が変わった感」を感じた。でもなぜか、宇多田ヒカルと違って、ちょっと引いた。

 

 さて、関西人の両親が関東で育てる子供の言葉はどうなるか、我が家にとっては地味だが、確実に由々しき問題だ。おそらく家では関西弁、外では標準語を使いこなすバイリンガルとなると思う。しかし、身内に関西人しかいない人間として、初の関東人身内が登場した時にどんな反応をするのか。また、関西人としての笑いの素養をどうやって身に着けさせるのか。相当な覚悟が必要かもしれない。知らんけど。

 

 

おわり